砂糖になりたいか?砂糖を味わう人になりたいか?
クリシュナ信仰をしていて、こういう言葉を聞く。
「砂糖になりたいのではなく、砂糖を味わう人になりたい。」 と。
月刊誌にも書かれているので、この見解が正しい。
バーガヴァタ・プラーナの サーンキヤ にも、「神様の一部になりたいと願うのではなく、神様の手足として神様に献身奉仕していたい。」 という内容が書かれている。
だから、この見解が正しい。
私は、その内容が汲み取れない。だから、私は神様に溶け込んでしまいたいと願うのである。ヴァイクンタ(神の国)で、クリシュナ様を賛美して幸福な生活を送る・・・と言うのがその内容だろうか???? よく分からない。
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コメント
こんばんは。
神様の中へ吸い込まれて溶け込んでしまいたい・・・は、ちょっと魅力的。麻薬のような吸引力がありますね。
でも、溶け込んだ先がブラフマンになってしまったり、プラクリティだったりして・・・
プルシャの一部、「我々」と表現されるヤーベーだったら良いのだけれど、どうなんでしょうね?
投稿: サーラ | 2009年1月25日 (日) 21時53分
砂糖になるか、砂糖を味わう側になるか?
ラーマ・クリシュナ(インドの聖人)は、砂糖を味わう人になりたいとおっしゃった。
「砂糖を味わう」ということは、「甘い」と感じることが出来る。楽しむことが出来るって事です。
「砂糖になる」とは、自分は甘くない。甘いと感じることが無い。他人が「甘い」と言ってくれたら「ありがとう」と、嬉しくなる位でしょうか。
神様に吸収されたら、個というものは存在しなくなるのではないでしょうか。サーラさんの仰るとおり、ブラフマンになってしまうのかもしれない。ヤーベーには個の概念があるので、ヤーベーにはならないでしょう。
どっちがいいかは、本人次第でしょうね。
ちなみに私は、砂糖を味わう側がいいですね。
投稿: 山さん | 2009年1月25日 (日) 22時04分
サーラさん、山さん、コメント有難うございます。
山さん、お久しぶりです。
砂糖を味わう・・・だけならいいのですが、神様の手足として働く、と言うほどの意欲が私にはまだ無いんですね。砂糖になりたい・・・私はもしかしたら、ラクシュミーのようにクリシュナ様の胸のところにあるシュリーバッツァ(印)に住んでいたい、のかも知れません。もしかしたら、ラクシュミーなんて大それたものじゃなく、印の1細胞となってしまいたいのかも。クリシュナ様の身体の1細胞になって、クリシュナ様といつでも一緒にいられてクリシュナ様の温かさ優しさ安心感に包まれていたいのです。手足になって働くほどの根性は、今は無いです。クリシュナ様の隅っこの一部分になって、ぬくぬくとしていたいだけなんです、きっと。
ちょっと精神的に疲れてるのかしらん。
投稿: キラキラ | 2009年1月25日 (日) 23時19分